お家シネマで癒されましょう

第27夜「避暑地のシネマな出来事」Side B

「避暑地のシネマな出来事」 Side Aのつづき

映画 「君の名前で僕を呼んで」 歴史を感じる北イタリアのひと夏。

監督:ルカ・グァダニーノ
脚本:ジェームズ・アイヴォリー
原作:アンドレ・アシマン

〈Story〉
エリオ(ティモシー・シャラメ)と家族は北イタリアの避暑地で過ごしている。大学の考古学教授の父の助手として、アメリカから大学院生オリヴァー(アーミー・ハマー)がやってくる。オリヴァーは自由奔放で自信家で、エリオは彼のことが好きではなかった。
毎日ともに過ごすうちに、エリオは次第にオリヴァーのことが気になるようになる。エリオがオリヴァーにキアラを薦め、オリヴァーに余計なことはするなと言われる。
ガルダン湖で遺跡が発見されたと聞き、父とオリヴァーとエリオは現場に向かう。その遺跡で、エリオとオリヴァーは仲直りをする。
ある雨の日、エリオに母が16世紀のフランス小説『エプタメロン』を読み聞かせる。それは若い騎士が王女に恋をし、彼女への愛を口にできず、告白すべきか、命を絶つべきかを王女に問う内容だった。エリオは自分の気持ちを止められなくなり、オリヴァーに自分の気持ちを伝えるのだった。

君の名前で僕を呼んで

文学的な感じで静かに物語が進みましたね。

最初に考古学の大学教授のお父さんのところに、オリヴァーが助手として来ます。
アプリコットの語源でオリヴァーが試されるのが面白いです。

毎年やっているって言う。

そうですね、試験みたいな。

インテリ家族です。

古典にも言語学にも通じている。みんな読書家なのに読書家って言わないですね。主役のエリオも読書家って言うのを嫌がっていた感じでした。

時代設定が分からなかったんですけど、余暇の潰し方が今と違う感じで、携帯も見ない。

性的なアイデンティティを周りの人が揶揄しないのは現代的です。

時代設定は82年ですね。性差別が激しかった頃で、特にエイズが大流行していたので同性愛に対するバッシングはひどかった。原作の小説にもエイズが描写されているけど映画では監督があえてカットしているみたいです。

脚色はジェームズ・アイヴォリーが携わっています。アイヴォリーも同性愛者ですね。

脚本はエイズの描写を入れたけど監督がカットしました。

中盤で友達の同性愛カップルが出てきます。

あの一人が原作者のアンドレ・アシマン。アシマンは同性愛者ではなくて、奥さんもお子さんもいます。

主人公エリオは性的なアイデンティティが確立していないふうだったね。

エリオもガールフレンドがいた。揺らいでいる感じですね。

エリオの性的な意識がはっきりとしてくる兆候が、湖からビーナスが引き上げられた時。あそこが物語の起点で、そこからオープンになっていく。

エリオがオリヴァーの持つ彫像の手と握手するところですね。

それまでエリオとオリヴァーが喧嘩していたけど、握手して
「停戦だ」。

最初のあたりは、エリオはオリヴァーに良い印象を抱いてなさそうでした。アメリカから来たオリヴァーがみんなとすぐ馴染んじゃうのが嫌な感じ。

カッコいい兄ちゃん。

自分じゃなくて他の人と仲良くなっているから嫉妬したのかもしれませんね。

オリヴァーの男の人との恋愛を、オリヴァーの父親が知った時に
「矯正施設行きだ」
と言うのはその時代の差別意識が描かれています。
エリオのお父さんが寛容なのに、オリヴァーの父親は不寛容だった。
エイズに対するバッシングはアメリカの方がひどくて、そういう時代が反映されていた。

ヨーロッパの方が緩やかだったのは歴史の違いかな。

僕は公開当時に観て今回二回目。ストーリーは理解できるんですけど、いまいちピンとこなくて本で勉強しました。この古代ギリシャの彫刻が作品のテーマとして描かれているみたいです。古代ギリシャにパイデラスティアという文化があって、言うなれば成人男性と少年の愛。

ギリシャ神話にもいくつか出てくるよね。(トロイアの王子だったガニュメデスなど)

そうですよね。哲学者にも男色家で有名な人がいるのにびっくりしました(ソクラテスなど)。
そのパイデラスティアの関係がこのエリオとオリヴァーに当てはまる。
高校の授業で習いましたけど、日本の武士社会でもそういうしきたりがありました。武将が少年をパートナーとして指導する。

信長には蘭丸というお小姓が付いていた。昔の権力者や武将のようなエネルギーがすごい人は、年齢性別は関係ないのかも。
ギリシャ神話の世界は現代よりも多様性に富んでいました。キリスト教がそれを抑圧しちゃう。アメリカよりもギリシャ神話の影響が残っているヨーロッパの方が寛容なのはそこかもしれない。

アメリカでは抑圧されていたということですか?

2022年に全州で同性婚が法律で認められましたけど、それまでは州によってまちまちでした。

カトリックとプロテスタントでも厳しさが違うんでしょうか? (カトリックの方が厳格)

僕は映画のタイトルが気になっていた。

その意味が分からなくて、何やろうって思う。

中盤で名前を交換する話が出てきますよね。単純に考えると、相手の本当の気持ちを知ろうと思った時に、相手の身になって考えようとするということかなって思いました。
「ロミオとジュリエット」だと、モンタギュー家とキャピュレット家が対立しているから、家名を拒否する意図で名前を交換したいというシーンがあります。

本の受け売りですけど、古代ギリシャの哲学者プラトンが、
「かつて人間は二つの体が一体になった完全体として存在していた。それが神ゼウスによって二つになってしまって今の不完全な姿になった。人間がパートナーを求めてやまないのは、自分の片割れを探し出して、本来の完全な姿に戻りたいと願うからに違いない」
「パートナーと出会ったらその人と一つになるのが自然だ」
って言っている。

不足の状態で生きている。

終盤でエリオがオリヴァーのシャツを着るシーンがありました。あれはまさに同一化じゃないですか。

作風的にギリシャ神話や哲学者の考えが影響していそうですね。

ヘラクレイトスの本も出てきます。

万物が変化していく、全ては本質として変わる、いつまでも永遠のものはない。
あれで結末が読めてしまう。

これも本の受け売りですけど、ヘラクレイトスが「万物は流転する」と謳ったんですけど、実は変わらないものが1個だけあって、それが火。
ラストシーンでエリオが暖炉の火を見つめながら終わるのは、エリオのオリヴァーに対する愛を表現しているんじゃないかな。

なるほど。僕は愛も変化するって読んだな。

何度もハエが出てくるのが謎ですね。暖炉を見つめているシーンでも他のシーンでも何回か出てきましたね。

あれも演出だと思うね。

あえてやっていますよね。

ハエは死の象徴っぽい気がします。

エリオが死んじゃうってこと?

いや、全体に死の香り、気配があるような気がしました。ロジックじゃなくて作品の風合い。漂っているものがある。

ハエって、最後の暖炉のところしか覚えてないんですけど、他にも出ていましたっけ。

序盤のエリオが、一人でベッドに寝ているシーン。他のシーンも何回か出てきている。監督もその意図は話してないみたい、こればっかりは謎ですね。

ハエが映っているだけかと思っていました。そういう気候なのかなって。

案外そうかもしれない。

エリオが風呂に入ってないだけか。

いやスタッフかも。
グァダニーノ監督をあまり知らない。
サスペリア(2018)」の監督やね。

2022年はシャラメ主演の映画「ボーンズ アンド オール(2022)」を撮っているんです。カニバリズムを描いた映画で面白そう。

グァダニーノ監督は溝口健二、大島渚、鈴木清純、宮﨑駿に影響を受けていると自分で言っているらしい。大島渚作品にはカニバリズムもあったかも。
(大島渚監督「佐川君からの手紙」の映画化は実現しなかった)

「君の名前で僕を呼んで」は脚本のジェームズ・アイヴォリーが監督をしたかったみたい。アイヴォリーは映画監督もされていた。

モーリス(1988)」が同性愛がテーマの作品でした。

本人が同性愛者でそこら辺を投影しているかもしれない。
いろいろ事情があって、「君の名前」の映画化権は取得できなかった。

アイヴォリーは「眺めのいい部屋(1987)」もいい作品です。「日の名残り(1994)」も大好きな映画です。

エリオとオリヴァーとエリオのお父さんの三人が原作者のアンドレ・アシマンの投影ではないかって言われています。ユダヤ系の人で幼少期にイタリアで暮らしていたみたいで、それはエリオのモデルですよ。大学院生の時に博士号を取った。これはオリヴァーと似ています。年を取ってから家族と一緒にイタリアに旅行して、アメリカに引っ越した。その時、イタリアでの暮らしを思い出してこの小説を書いたみたいです。当時の年齢からすると、エリオのお父さんの方。
クライマックスでエリオに、
「自分もかつてこういう経験があったよ、その思いを大事にしなさい」
と言う。あれは今のアシマンが過去の自分に向かって話しているみたいでした。

僕も最後のお父さんのセリフが気になっていて、原作と脚色がどこまで混ざっているのかなと思って気になりました。

アシマンは妻子持ちですけど、もしかしたら男の人を好きになった時期があるんじゃないかって深読みできますよ。

小説も読んでみたいですね。

小説は続きがあるんです。(「Find Me」オークラ出版)

このあとエリオとオリヴァーが再会するんですね。

オリヴァーは結婚しているんじゃなかったっけ。どうするんだって。

万物は流転する。

離婚しているかもしれない?
中盤で、なぞかけみたいな会話があって
「大事なことは何も知らない」
ってエリオが言う。その大事なことは何か分からないまま会話が続いて、何のことだろうって思いながら、いや多分ああいうことだろうなと思ったんですけどね。

言葉を交わさなくても、二人では通じるものがあったんでしょうね。

きっと知らないことは自分でも分からないということやと思う。

そういうシーンもありました。プールの横でノートに書き付けをして、
「こういうふうに書いたけど、どう分かる? 僕も分からない」
って言う。
人との付き合い方が日本と違うと思いました。オリヴァーと仲良くしているけど、マルシアとも仲良くしているし、オリヴァーは初めの方からエリオのことを聞いてみたりするけど、キアラという女の子と仲良くしていたりする。告白する段階もないなって。

柔らかな世界観で境界線がぼやっとして、そこが生きやすいのかもしれない。

マルシアは毎日のように挨拶もなく家に入ってきたりする。どういう仲なんやろ。

自然に囲まれていると、家と区切りが無さそうですね。自由に出入りできる開放的な場所でした。

自然もあるし、近くに歴史もたくさんある。

避暑地にはもってこいですよね。

ゆったり時間が流れていますね。日本やアメリカと違いますよね。
ああいう暮らし方をしているから自分のことも分からないと認められるのかも。その前提って大きい。自己主張する人があまりいない。

他人に対してもそんな感じがします。この人はこうと決めつけない。そう考えると、同性同士だからという葛藤はなかったのかも。周りから言われる環境ではないし、ただお互いの恋が結ばれなかっただけに見えましたね。

そうそう、そんな感じがした。普通の恋愛ドラマのように描きたかったのかも。

オリヴァーはエリオと恋愛をすることに消極的なところや、オリヴァーのお父さんの話しぶりからして、男同士を気にしているのかなって思って。相手が教授の息子さんというのを気にしたのか、どっちなんやろって考えています。

両方あるのと違う?

「君の名前で」を観た時に「太陽がいっぱい(1960)」ではトムがフィリップを殺してフィリップになってしまう、あの関係も紐解けそうな気がしました。アイヴォリーは「太陽がいっぱい」をどう解釈するのかな。

同じ原作のリメイク版「リプリー(2000)」は同性愛的な要素が強く出ています。トム・リプリー役のマット・デイモンの方が愛憎を抱きます。
「太陽がいっぱい」ではトムがフィリップの服を勝手に着て、フィリップの口まねをしながら、鏡越しに自分にキスをするシーンに、同一化と愛情という要素があるかなと今思います。

相手の真実や本質と本音の部分を理解しようという追求心。それも欲望だけどね。

なりきる人のことを知りたいということ?

そうそう。このタイトルはそんな気がするね。相手になりきれば、自分に対する気持ちが分かるんですね。

相手に自分がなってしまうと、その人が消えてしまうような感じがします。

そうか、どっちかが消えちゃうかもしれないね。

そうですね。自分も消えますし、自分が見ていた相手が自分になれば、対象じゃなくなるという心理になります。憧れってそういう心理ですかね。愛を超えて。

ありきたりだけど、憧れの人と同じものを身につけたり、ペアルックしたり。

尊敬する先輩の口調に無意識に似せたりね。

似てくるものですかね。

それは本質的な欲望かもしれない。憧憬から真似をしてしまうのも無意識のうちに相手になろうとしているのかも。

Eくん

年間 120本以上を劇場で鑑賞する豪傑。「ジュラシック・ワールド」とポール・バーホーヘン監督「ロボコップ(1987)」で映画に目覚める。期待の若者。

サポさん

「ボヘミアン・ラプソディ」は10回以上鑑賞。そして、「ドラゴン×マッハ!」もお気に入り。主に洋画とアジアアクション映画に照準を合わせて、今日もシネマを巡る。

キネ娘さん

卒業論文のために映画の観客について研究したことも。ハートフルな作品からホラーまで守備範囲が広い。グレーテスト・シネマ・ウーマンである。

検分役

映画と映画音楽マニア。所有サントラは2000タイトルまで数えたが、以後更新中。洋画は『ブルーベルベット』(86)を劇場で10回。邦画は『ひとくず』(19)を劇場で80回。好きな映画はとことん追う。

夕暮係

小3の年に「黒ひげ大旋風(1968)」で、劇場デビュー。照明が消え、気分が悪くなり退場。初鑑賞は約3分。忘却名人の昔人。

ティモシー・シャラメ
アーミー・ハマー
検分役の音楽噺 ♪

避暑地の音楽といえば、59年の米映画『避暑地の出来事』のメインテーマ、「夏の日の恋」を思い出される方も多いでしょう。
パーシー・フェイス・オーケストラの演奏が有名ですが、作曲したのは『風と共に去りぬ』(39)のマックス・スタイナーです。
たとえば『エデンの東』を作曲したのはレナード・ローゼンマンですが、後のヴィクター・ヤング・オーケストラの演奏バージョンが有名になったので、 ヤングが作曲したと思っている方が多いように、「夏の日の恋」もパーシー・フェイスが作曲したと思っている方も多いみたいですね。

それはさておき・・・。
今回取り上げられている『ベニスに死す』でのマーラーの交響曲第5番第4楽章「アダージェット」は、クラシックが使われている映画、 というカテゴリーには必ずといっていいほど取り上げられる楽曲。
『2001年宇宙の旅』(67)の「ツァラトゥストラはかく語りき」や、『地獄の黙示録』(79)の「ワルキューレの騎行』などなど、 映画に使われたクラシック曲を集めたCDには必ず収録されていたりします。
個人的な感想では、映画音楽作曲家という仕事がありますので、オリジナルの劇判を使ってほしいな、という思いはあるものの、監督やプロデューサーのイメージを表現するという意味では、既成のクラシック曲を使うケースもよくあることです。
ちなみに『ベニスに死す』の場合は、既成のクラシック音源を使うのではなく、ヴィスコンティ監督の劇判を多く担当している 作曲家フランコ・マンニーノが、本編のために編曲と指揮を担当しています。
それを考えると、監督はマンニーノに対する義理を通したということかもしれませんね。

映画 「ベニスに死す」 海辺の避暑地で審美に流離う芸術家。

監督:ルキノ・ヴィスコンティ
脚本:ルキノ・ヴィスコンティ、ニコラ・バダルッコ
原作:トーマス・マン

〈Story〉
ドイツの作曲家・アッシェンバッハは静養のためベニスを訪れる。
彼は、ふと出会ったポーランド貴族の美少年タッジオに理想の美を見い出す。アッシェンバッハはタッジオから目が離せなくなる。日頃、芸術論を交わしている友人の幻想が「美とは自然に発生するもの。創造を超えた美がある」と彼に告げる。
ビーチでは、水着姿のタッジオが友達たちと無邪気に遊んでいる。タッジオへの思いは強くなる一方。自分の気持ちに苦しむアッシェンバッハは、ベニスを去ることを決意する。
列車に乗るアッシェンバッハの元に、駅員がやってくる。手違いで荷物が違う場所へ行ってしまったと伝えベニスを離れられなくなる。
駅の構内では、やせ細った男が力尽きたように倒れていた。ベニスではただならぬ事態が起こっていた。

ベニスに死す(1971)」はちょうど4年ぐらい前に「午前10時の映画祭」で観ました。劇場に他には誰もいなかったのを覚えています。

友達にすすめられて観た気がするけど分かりにくい。

あるドイツ人の音楽家(ダーク・ボガード)が静養を兼ねてイタリアのベニスへ。
そこでとある家族連れのうちの一人、美少年タッジオ(ビョルン・アンドレセン)に夢中になって、ひたすら追いかける話。
主人公は原作では作家でした。映画では音楽家に変更されています。
「君の名前で僕を呼んで」と、共通するのはイタリアが舞台。「君の名前で僕を呼んで」のロケ地がロンバルディア州、隣のベニト州が「ベニスに死す」。「君の名前」は彫刻、「ベニスに死す」では音楽。そして、少年愛。

トーマス・マンも古いですね。(トーマス・マンがベニスでポーランド人の美少年を見たのは1911年だった)

僕も原作は読んだことないです。

僕が小さい時に母の本棚にトーマス・マンがあった。日本でも昔の方が少年愛に寛容やったのかな。

主人公アッシェンバッハのモデルがグスタフ・マーラー、オーストリアの音楽家。
劇伴やテーマ曲「アダージェット」をマーラーが作曲。トーマス・マンとマーラーが知り合いだったみたいです。
アッシェンバッハが一方的にタッジオを追いかけまわして、120分超えの作中、二人は一言も会話しない。

え、そうなんですか。

タッジオが挑発的な目でアッシェンバッハを見つめることは何度もある。わざと振り返ってみたり、アッシェンバッハの目の前の柱伝いにぐるぐる回ったりする。悪魔のような天使のような振る舞い。
アッシェンバッハが思わずふらふらっとするシーンはあるけど何も喋らない。側から見ると終始異様な光景だけど、アッシェンバッハはタッジオを性的な目で見ているんじゃなくて、美の象徴として追い求めている。ネタバレなんやけど、アッシェンバッハは最後に死んじゃうんです。

タイトルで分かっちゃうね。

当時の20世紀初頭のベニスはコレラが流行っていて、賑わっていた観光地がだんだんと閑散としていく。町中ではコレラに罹った人の服を燃やしている煙が上っている。街中が煤だらけになって楽しかった風景が一変して、薄暗い印象になってくる。それでもアッシェンバッハはベニスを離れようとせず、タッジオを追いかけている。
中盤でアッシェンバッハはコレラが流行っていることを知ります。地元の人は観光客が逃げると商売にならないから黙っているけど、親切なホテルマンが教えてくれる。アッシェンバッハはタッジオを助けたい一心で、タッジオのお母さんに疫病から逃げた方がいいって言うけど、一家はそのまま居続けます。
駅で浮浪者っぽい男性が苦しそうに倒れていたり、地元の人が街中に消毒液をバシャバシャ撒くシーンがあったり、不穏な雰囲気が漂っています。消毒液の撒布を見て、アッシェンバッハは屋台のおじさんに、何をしているのかと聞いてもおじさんは何も言わない。

へえ。それを隠しているんですか。

観光客が逃げるとか、言っていられないぐらい大流行していた。

住民も疲弊しきっていますよね。コレラの時代ですね。

アッシェンバッハが泊まっていたホテルが賑わっていて楽しそうだったのに、コレラの影響で無惨な姿になっているのがこの作品を物悲しい雰囲気にしています。

アッシェンバッハはコレラで死んじゃうんですか?

明言はされてないけど。そうですね。
中盤でアッシェンバッハが床屋さんで、髪を染めて整えてもらって、老化を気にして、お化粧をしてもらう。口紅までしてもらうのが不気味で死化粧かと思います。
アッシェンバッハは化粧をしたまま、誰も人も少なくなった浜辺でビーチチェアに座っている。浜辺でタッジオが遊んでいる。アッシェンバッハは手を伸ばしてガクって死にます。

思っていた感じじゃなかったですね。

回想シーンで、アッシェンバッハの音楽家としての一面が描かれます。
音楽家の友人と美について口論します。アッシェンバッハは
「美とは創造できるものだ」
友人は
「いやそれは違うよ、自然発生的に生まれるもんだ」
と言い合っている。
アッシェンバッハは音楽家として評価されなくて演奏中にブーイングの嵐にあって倒れるほどに痩せちゃう。音楽家は創作活動を通して、美を追い求めます。そんな時に美の象徴であるタッジオが現れたから、疫病を気にもせず追い求めた。

芸術家の性(さが)を描いていますね。

ネットで見ると少年がめちゃくちゃ美少年です。

ビョルン・アンドレセン。
実は「べニスに死す」を観る前に、ドキュメンタリー映画を観たんです。それが「世界で一番美しい少年(2021)」というアンドレセンのドキュメンタリー映画。彼は今70歳近くですけど。「ミッドサマー(2019)」の崖から飛び降りる老人がアンドレセン。

もう見る影もないですね。

ドキュメンタリーでは、アンドレセンの私生活が描かれるけど、家族や恋人もいながらも、ある程度距離を取って暮らしている。「べニスに死す」では当時新人で、ルキノ・ヴィスコンティ監督に見出されてこの映画に出る。世界で一番美しい少年というので、たちまち有名になると、それが本人にとってはかなりの負担になる。
ヴィスコンティが同性愛者で、ドキュメンタリー映画の中でさらっと言っていたのにびっくりしたのが、スタッフも全員同性愛者だったみたいです。
アンドレセンの生い立ちも壮絶で、小さい頃にお父さんが失踪して、お母さんが自殺しちゃう。おばあちゃんに育てられて、おばあちゃんが有名人にしようと躍起になって、映画に出したり、芸能活動をさせる。
アンドレセンは後に結婚して息子さんを亡くして、悲劇的な出来事が重なって、人と距離を置くようになります。

ショックやね。知らなかった。

監督の嗜好は置いておいて、この映画は面白い。
ヴィスコンティの映画は全体的にわかりづらいですよね。

美と退廃ですね。

ダーク・ボガード
ビョルン・アンドレセン

映画 「風立ちぬ」 避暑地の恋の行方は。

監督・脚本・原作:宮﨑駿

〈Story〉
飛行機に憧れている少年・堀越二郎は、夢に現れた飛行機の設計士カプローニ伯爵に励まされ、飛行機の設計士を志す。東京帝国大学の学生になった二郎は関東大震災が発生した際に乗車していた汽車の中で少女・里見菜穂子とその女中・絹を助ける。
世間は世界恐慌による大不景気へと突入していた。
大学を卒業した二郎は飛行機開発会社「三菱」に就職する。二郎は上司たちから目をかけられ、企業の命運を左右するプロジェクトを任され、ドイツへの企業留学など仕事に打ち込む。
入社から5年経った後、大日本帝国海軍の戦闘機開発プロジェクトの先任チーフに大抜擢されるが、完成した飛行機は空中分解する。
初の挫折を経験し意気消沈した二郎は、避暑地のホテルで休養を取り、そこで思いかけずに菜穂子と再会する。二郎は菜穂子に結婚を申し込むが菜穂子は結核に冒されていた。

風立ちぬ

風立ちぬ(2013)」の避暑地ってどこでしたっけ?

軽井沢です。
零戦(零式艦上戦闘機)を作った飛行機設計士の堀越二郎の半生の話。
設計士としての話と、ヒロイン菜穂子さんとの恋愛の話と2軸があって、それと並行して堀越二郎が憧れるイタリアの飛行機設計士カプローニと夢で繋がっています。

寝ている時に見る夢で?

宮﨑駿とも繋がっているのかな。

ふふふ。
思ったよりファンタジー。

その夢の部分が一番ファンタジー。

宮﨑駿って飛ぶことが好きですよね。

紅の豚(1992)」でも飛行機好きなのが分かる。

最初に地震がありましたね。

関東大震災。

じゃあ、時代は大正やね。

主人公堀越二郎は少年の頃から飛行機乗りになりたかったけど、目が悪くてパイロットになれない。夢の中で飛行機設計士のカプローニおじさんが
「私は飛行機には乗れないけど、飛行機の設計ができる」
と言って、二郎も飛行機の設計がやりたいって思うようになります。
大学に入って故郷から東京の大学へ戻る時に、列車の三等車と二等車の間で本を読んでいたら、二等車から少女と女中さんが出てくる。二郎の帽子が風で飛んでいくのを少女がキャッチしてくれる。それが出逢い。
帽子を渡して少女・菜穂子と女中さんが客車に戻っていくと、その直後に関東大震災で東京中が揺れて列車は急ブレーキで止まる。
誰かが
「列車が爆発する」
って叫んで乗客は我先に逃げ出そうとして混乱する中、少女と女中さんが逃げ遅れているのを二郎が見ていると、女中さんが足を骨折してしまう。それを二郎が助ける。二人をお寺の境内まで連れて行って、少女の家に行って人を呼んできます。
二人を助けた後、二郎は
「じゃあ」
って名前も告げずに去って行く。
いや、いい男なのよ。
二郎はその後、名古屋の三菱の飛行機製造会社に設計士として就職する。
当時、日本は不景気だけど戦争しようと戦闘機ばかり造っていて、街中には飢えた子供がいます。日本の技術が世界的に遅れているなか、腕が良い二郎はプロジェクトを任されるけど、飛行試験で陸軍の人の目の前で飛行機が大破しちゃう。
傷心にかられた二郎は軽井沢に行って休暇を取ることにしたのね。
ホテルの前には草原があって、その丘の上でパラソルを挿してスケッチをしているお嬢さんがいる。その横を二郎が通りかかった時に、突風が吹いてパラソルが飛んでいく。それを二郎はとっさに受け止めて、その時はパラソルを返すとすぐに別れます。
ホテルの食堂でまた会うけど、パラソルの人というだけで目が合っても会話はしない。
二郎がホテルの周りを散歩していると、泉のところにお嬢さんが立っている。二郎が近づいてきたことに気づくなり、背を向けて感極まった様子になったので、二郎は彼女が気分を害したと思って帰ろうとする。
「待ってください。あなたは震災の時に助けてくれた恩人です」
あの時の少女が成長してお嬢さんになって再会するのが軽井沢の避暑地でのできごと。
その日の夜、菜穂子のお父さんに紹介したいと夕食に誘われるけど、菜穂子の具合が悪くなって会食をキャンセルされる。翌日、ホテルの食堂で見かけないなって思って、泊まっているだろう部屋のベランダを気にかけて見ていたりする。
ある時、二郎が飛ばした紙飛行機が風に吹かれて菜穂子の部屋のベランダに落ちていく。菜穂子はそれを二郎の方に飛ばし返す。二郎は紙飛行機を作り直して飛ばして交流をする。
軽井沢は二人の再会と恋が育まれていくシーン。
二郎は菜穂子のお父さんに彼女と結婚したいと言ってしまう。
「母も二年前に結核で亡くなっていて私も同じ病気です。必ず治すのでそれまで待ってください」
っていうところまでが避暑地での恋。

不穏ですよね。

昔の避暑地って療養する場所。昔の文学者たちも結核になった。
(竹久夢二、藤沢桓夫、横溝正史、山口耀久、伊藤礼、岸田衿子、阿刀田高)。堀辰雄も結核で療養して「風立ちぬ」という小説を書いた。

「菜穂子」という小説もあるんですね。

それは読んだかどうか覚えていない。「風立ちぬ」は何回か映画化されているね(1954年版:久我美子、1976年版:山口百恵)。

「風立ちぬ」はフランスのポール・ヴァレリーの詩(『海辺の墓地』の一節「Le vent se lève, il faut tenter de vivre.」を堀が訳した「風立ちぬ、いざ生きめやも」)で、これから生きようという決意を著しています。
宮﨑駿が好きな言葉かも。「もののけ姫(1997)」では「生きろ。」ってキャッチコピーをつけている。
作中には
「生きろ、そなたは美しい」
って台詞もあります。

堀辰雄の原点と同じところにたどり着く。

その後、二郎は避暑地から仕事に戻って飛行機を設計する話と、菜穂子が家に帰って病気とどう折り合いをつけていくかという話になっていく。
そしてカプローニおじさんは何なのか。

そうですね、そもそも実在する人ですか?

作中で活躍している飛行機設計士です(モデルはジャンニ・カプローニ)。

設計している飛行機のスケールが違いますよね。客船みたいな大型飛行機を作っています。

不思議ですね。どういう意味があるんだろう。

日本は大正から第二次世界大戦の間で必死になって戦闘機を作ろうとしていた。飛行距離を伸ばすために、いかに軽く作るかが重要で、軽く作るポイントがネジをどうやって減らすか。

意外と小さいパーツ。

そこで日本人の技術が発揮されてアメリカ人が驚く。
あの頃ってドイツとイタリアと日本って仲が良くて、海外留学もしますよね。

ドイツの飛行機会社に研修に行く。それも当時は旅客機が無いから大陸鉄道で行く。

ドイツの夜のシーンで、壁面に走る人影が映るんです。
あの構図は「第三の男(1952)」のオマージュだと思いました。
君たちはどう生きるか(2023)」は「風立ちぬ」の雰囲気もありました。

最初は戦争映画かって思って見始めたら、途中から「ジブリや」って。

アオサギが出てきたあたりから。

情報がアオサギのポスターしかなかったから、アオサギがひたすら2時間喋るだけの映画やったらどうしようって思っていたんですよ。

ははは。

ストーリーがあって良かったと思ったら途中から「あれっ」って、ストーリーの動線がぐにゅぐにゅになって輪郭がよく分からない。

いろんな宮﨑作品をミックスした感じです。

今までの作品を重ねて不思議の国のアリスをやっているみたいです。

解釈が難しかったですね。

タイトルに引っ張られすぎですね。みんな解釈しようとするけど、宮﨑駿の作品には割と原作があります。
今回も児童文学の原作(ジョン・コナリー「失われたものたちの本」創元推理文庫)があるんです。それを日本の戦時中の話にして宮﨑モードにするアレンジがあるので、物語に理解はいらないかな。

どうやって作品をアニメ化するか。

吉野源三郎「君たちはどう生きるか」は、主人公にお母さんが残してくれた本でした。

物語とは関係なかった。

(対話月日:2023年6月23日)